迷惑をかけるということ
あるお寺の掲示板の言葉が印象的でした。
「自分のお葬式が家族の迷惑になるなんて考えるのは、今まで参列したお葬式が迷惑だったからだね?」
「自分のお葬式が人の迷惑になる」というご相談は本当によく受けます。その度に私は少し悲しくなります。一度しかない自分の死という出来事が、なぜ迷惑になってしまうのか、なぜ尊ばれないと 思ってしまうのか。
ある書籍の引用です。
「日本における通俗道徳(人が人生で失敗したり貧困に陥ったりするのは、その人の努力が足りないからだ)は経済発展を成し遂げる原動力となったが、経済が発展すると共に人々は「迷惑をかけられたくない」という思いも増大させてきたのではないだろうか。そして、世間に迷惑をかけることを極端に恐れるようになってきているのではないだろうか」
この通俗道徳は日本人の美徳でもありますが、現在のような物価高で暮らしが逼迫され、心から余裕がなくなってきている中においては悪いストレスとなります。その中で「迷惑」を過度に扱ってしまうと、さらに大きな苦しみを生みます。
インド人は子どもに「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えます。そして困っている人がいたら助けなさいと説くそうです。お互い迷惑をかけながら、助け合い励まし合う社会を望みます。
日常の仏教語「迷惑」
「迷惑」は法華経の中にも登場する仏教語です。本来は「心の迷い、道理に迷うこと」を意味しますが「他物の人を迷わせる行為」そのものをさすように。元々の意味に沿うのなら、「自分自身が物事の道理をきちんと理解してないが故に、迷ったり戸惑ったりする」という戒めの言葉であり、悟りの対義語なのです。
