スゴイ日蓮聖人

鎌倉時代、多くの宗派と名僧が活躍した時代。
その時代の終わりに現れ、今なおカリスマ性が語られる日蓮聖人。
その日蓮聖人(以下、日蓮)のすごさを、小坊主なりにまとめてみました。

漁村で産まれ育った
千葉県の小湊という漁村で日蓮は育ちました。自分のことを「旃陀羅(インドにおいて、生き物の命を奪い生きる最下層のこと)」であるとし、貧しい暮らしをしていました。他の開祖の方は「法然、一遍‥豪族」「親鸞、道元‥公家」「栄西‥神官」、日蓮の生いたちはかなり特殊と言えます。そんな日蓮だからこそ、「成仏に貴賤はない」という言葉に真実味を感じます。

両親を敬い、救いたいと出家
日々命を奪い、罪を重ねる生活。「幼き時に両親が亡くなる」というのが出家の動機として多い中、「父母を救わんがためなり」と十二歳で寺に入り十六歳で出家します。「我が頭は父母の頭」、自分と両親はつながっている、両親の成仏のためには、まず自分の成仏が必要である。かくして「日本第一の知者となしたまえ」と勉強と修行に明け暮れる日々が始まりました。

とにかく勉強した
延暦寺で勉強する日蓮。延暦寺は当時の仏教大学みたいなもので、他の開祖たちも皆ここで勉強しました。十七歳で一切経を読んだ日蓮には、「どうしてこんな多くの宗派があるのだろう。お釈迦様が本当に伝えたかったのはどれだろう」という疑問がわきます。そして、三十二歳になるまでの二十余年もの間、各宗派の色々なお寺に入りさらに勉強しました。そして、法華経こそお釈迦様の本意という結論に辿り着きます。

日本と国家のことを考えた
当時、日本各地で地震・水害・大火事・疫病・天変地異が起こり、国民は疲弊していたようです。「どうすれば僧侶として日本の民を救うことができるのか?国のトップが、仏教の正しい教えである法華経に帰依し、民を安んじていかなければならないのではないか」法華経は、聖徳太子の時代から大切にされてきましたが、鎌倉時代は浄土宗等がほとんどで、重要視されていませんでした。
そして日蓮は「我日本の柱とならむ(日本を支える柱となろう)我日本の眼目とならむ(真実の教えを見抜き、日本の眼になろう)我日本の大船とならむ(苦しんでいる人々を救おう)」というスケールの大きな誓いを立てたのです。一僧侶が国家のことを考えるなんてことは、ほとんどありませんでした。ここも日蓮聖人ならではですね!

国のトップにも物怖じせず
法華経布教は、ゼロからのスタート。しかも念仏が主流の完全アウェイの世間です。
そんな中で道ばたで説法。さらには地頭で熱心な念仏信者の東条景信、国の執権を握っていた北条家にも、直々に説法しにいきます。この勇気と情熱は本当にスゴイ!また論理的で話もうまかったため、次々と信者を増やしていきます。

何度も命を狙われるも生き延びる
しかし、こんな布教をしているのだから敵も多く、「大難は四度、小難は数知れず」とあるように何度も命の危機に晒されました。特に四度の大難は「武装した連中に襲われる」「海の途中に置き去りにされる」「東条景信に襲われる」「斬首刑にかけられる」と、助かったのが不思議なほど。その難の度に、逆に法華経信仰の力を強めていきました。

一人一人にあてた手紙
その布教方法から、過激と思われがちな日蓮ですが、個人の琴線に触れるお手紙を残しています。その量と質は日本一と言われるほど、膨大な量です。ある時は叱り、ある時は励まし、ある時は共に悲しみ、御供えを頂いた時には必ずお礼状を出していました。
情熱と行動力、信念、熱意、そして気配りや優しさを兼ね備えた日蓮聖人だからこそ、今なお沢山の人に慕われているのです。